これまでの作品

これ以下には多くの画像があり、これからも増やす予定です。画像の著作権は中原とほるに帰属します。 すべてのコンテンツの無断転載を禁じます

「ドクトル・ノンベ」 1,2巻 講談社

モーニング、イブニング等に不定期連載されたものを単行本化したものです。1993年発刊です。
飲んだくれの主人公が、特別最新の医療技術も使わず、色々な事件に巻き込まれていきます。 主人公のキャラが好きで最近又描き始めだし数編できて、編集の方のOKはもらって完成原稿もできているのですが なかなか掲載の機会がないという状態です。 ちなみにこの本は現在2巻とも絶版で、古書店やコミPCでたまに売れているという程度です( 笑 )。



2014.11.8 「絶版マンガ図書館」さんで、「ドクトル・ノンベ」1,2巻が無料で見られるようになりました。


URL:絶版マンガ図書館・ドクトル・ノンべ1,2巻


「タバコってな〜に?」第4版


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ずっと前より、愛媛県医師会から依頼があり、小中学校の生徒さん用に描いてきていました。。5年ごとに医師会の担当の先生の 指導のもとに改訂を行い、2022年末に第4版ができました。今期は第3版に比してページが倍増しました。担当の県医師会の先生(改訂のたびに担当の先生は代わります)がご熱心で、今回は8回も 描きなおししました。担当の先生のご熱心さには頭が下がり、それだけ私も力を入れて描いたつもりです。医師会でも県内の学校にこの冊子を配布してそれなりの禁煙運動の効果が出ているとの ことです。
本来は「これまでの作品」ではなく「これからの作品」の部門に入れるべき作品ですが、いきがかり上、私の一存でこの部門に入れました。
もしかしたら、私の作品の中では 一番のロングセラーかもしれません(笑い)。最後に今回は、表紙はもとよりレイアウト、編集すべてを、漫画家で、デザイナーで、そして友人である津川智宏先生に大変お世話になったことを 記しておきます。ありがとうございました。


かえるになった次郎 ( 中原とほるのデビュー作品 )


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 私が生まれて初めて自分で描いて投稿したデビュー作品です。
 「COM」という漫画雑誌がありました。手塚治虫先生が中心につくられたマニュアックな雑誌であの頃の自分にとっては魅力的な 雑誌でした。24〜25歳ぐらいの時だったと思います。とにかく自力で一つの作品として最後まで描きあげた初めての作品です。 スクリーントンも貼らず(やり方を知らなかったのかも)、それでも精一杯背伸びして描いています。
大学の運動部の合宿の夜の自由時間に近くで買ってきた雑誌で結果を知りました。選外でしたが数ページ小さく載り、ちばてつや先生の講評がついていました。 構図がユニークだとか、セリフ回しがいいというような意のものでした。その時、同誌を覗き込んだ部員のみんなの反応は異分子を見るように無反応でした。 しかし落選とはいえはじめて描いた自分の漫画についての批評が活字になったのです。その夜将来漫画家としての可能性をちょっぴり感じて合宿の布団の中で 何だかほんわかした暖かい気分にひたっていた自分をほろにがく思い出します。しかしそれからも何年も私の漫画人生にとっては冬の時代が続くことになります。
 何十年ぶりに取り出して見直して、そんなに悪くない作品だと思います。デビュー作にはその人のすべてが含まれているとよく言われますが、 そうかもとちょっと思います。古い原稿にセリフだけ活字で手直ししました。途中手書きのセリフは、誌上に一部縮小して載せるためにその部だけを 編集者がペンで(!)描きこんだものです。なんかちょっと無神経だなあと思ったもので、今もそう思っています。


鯨の夢 


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1986年、コミック・モーニング掲載。投稿するたびに掲載されるという幸せ絶頂の期間の作品です。この時代、新人にも多くのページが与えられ、 この作品も前篇・後編で60ページです。周りから言われている絵の下手さ加減もこの作品ではそんなに露呈していません(あくまで 自分の感想ですが)。

豪勢な手術


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「ドクトル・ノンべ」単行本未掲載の一話です。

点とり虫のサンバ


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少年マガジンの「ちばてつや賞」に佳作入選した作品です。当てのない応募を仕事の合間に不定期に描いては送るを繰り返し、 4.5回目の事。生まれてはじめて自分の作品がおおやけになった記念すべき作品です。昭和55年(1980年その当時の顛末は「漫画以外の作品」の 「漫画家兼医師奮戦記」に載せています。今回HPに載せる際、再読しましたがあの頃を思い出して感慨深いです。

 

影の手術 


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少年マガジンの「ちばてつや賞」入選の作品です。昭和57年(1982年)。たしか賞金30万円、嫁さんの指輪に全額放り込んで 点数を稼ぎました。……と記憶しているけどなあ。

闇の会議


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応募作品です。一次審査は受かりましたが、二次でボツ。闇とか、影とか、裏とか、アウトローとかそういう雰囲気は僕はいつまでも 捨てきれません。読んでみてください。

ドクター・ベルト


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私のパソコンのファイルの隅に、以前からこの作品があるのは知っていました。
コンピューターで描き始めたころの作品ですが、このデータは、セリフの箇所が白紙のままです。応募するときにセリフは 鉛筆書きがきまりなので、そのため白紙にしたのでしょう。でも応募した記憶がありません。 表紙がザツ、名前のクレジットもないということから、この作品は実際応募していないはずです。このようにほとんど出来上がっているのに 応募していない作品がまだ他にもあるのです。あのころ、なぜそんな無目的なことをしていたのか、今となっては不可解という以外言葉がありません。 読み返そうと思ったのですが、50枚の,セリフが白紙の作品は、いくら自分が描いた作品とはいえ 解読は不可能です。捜してみたのですが、肝心のセリフが書いてあるファイルも書類も行方が判明しません。ためしに一枚一枚自分で セリフを入れ直そうとしたのですが、絵があるにもかかわらずさっぱり進行がわからない。 仕方ないので、長い間そのまま放置してたのですが、1月前にセリフが鉛筆で書いてある50枚の原稿が入っている冊子が 偶然見つかりました。 読んでみると結構面白い。それで2日ほどかけて、セリフの箇所に活字を埋め込みました。その作業をするにつれて、そのころの ドクトルノンべに次ぐ新しいキャラを模索してもがいている自分も思い出してきました。今見ればいろいろ描き直したいとこも 多々あるのですが、あえてそのままの姿でULしました。


やぶにらみ人体学


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これもひと月前に実家で偶然発見した原稿です。
「お義母さんがこんな封筒を見つけたよ」ということで、嫁さんが実家から持って帰ってきました。どうしてこんなものが長い間、 しかも漫画のにおいのほとんどしない環境の実家に残っていたのでしょうか。古い封筒は宛名も見知らぬ名前です。詳細は不明。 多分通らないだろう、と思いながらあてのない投稿をしていた時代のもので、ボツ原稿の返却されたものには間違いないようです。 学生時代の投稿作品です。ヒトコマ漫画を集めたもの。もし万が一通過してもこの路線で行く気もないのに……。 ほんとうにあてのない時代の作品。いったいどういう読者を対象として描いたのでしょうか。通るあてももないのに。 思い出せば、あのころのぼんやりとした閉塞感。もしかしたら、自分は単なる漫画の趣味人であって、一生自分の描いた作品が 世に認められることもなく一生を終るのかなあ……。そう思いながらも色々なスタイルの漫画を描いていたんだ。 あのころを思い出すと自分が何だかいとおしい(笑い)。
まあ今も似たようなもんですが、昔と違うといえば、今の私には暗い絶望感といったようなものが皆無ということかなあ。


虫たちの歌


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1995年ごろの作品です。もちろんボツ作品。
ストーリー漫画をいくら投稿しても、投稿してもボツの連続なのに、全然違う分野の一コマ漫画に挑戦しています。万が一この一コマ漫画が 入選したとして、そのあとにいったい何があるというのでしょうか。先々、それが成功したとしても、私は(その頃の私も)一コマ漫画でやっていく気は 全然ありませんでした。だいたいその時代、漫画雑誌で一コマ漫画のコーナーも連載も皆無で、今もその状況は変わっていない。だけど描いている。 結局、漫画家になることは熱望してやみませんでしたが、じゃあ、本当に描きたいものはなんだと問われたら、それがなかったのです。
まあ、僕の漫画家としての立ち位置はあの頃も今もたいして変わっていませんが、一つ違うといえば、今は描きたくてたまらないものがあるということです。
それはそれとしてですね、実は、私はこの作品が大変気に入ってるんです。確かどこかにあるはずだとずっと思っていて、倉庫をあさり、見つけました。 ファイルは不明でしたが(これもどこかにあるはずです、マックのデータとして)きれいにプリントした原稿が見つかりました。 解像度をぜいたくに高くして、細密画っぽくて、自分の作画意図が十分表現できていていると思います。 この頃、デジタルで描くことに少し慣れてきました。味をしめた私はもう、ペンを持つ気はさらさらありませんでした。新しい作画法に酔いしれていました。 もちろんコチコチのマック信奉者で、「右クリックなんて、マウスの本来の使用法から逸脱している」とうそぶいていたものです。今はXP,7で、マックは ほこりをかぶっています。それにしてもフォトショップ(CS)は高価ですな、なんとかなりませんかねえ。 


恥ずかしがりやの病気


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1980〜1995年の応募作品。製作時代がこれだけ幅広いのは記憶がないからです。ボツ作品。 それにしてもよくボツ、ボツでめげずに投稿し続けたものですな。あのころは僕の医者人生としても一番忙しい時代でした。 忙しければ忙しいほど漫画にのめりこんでいた、我ながら感心する。
でも、この作品は「中原とほる」のエッセンスが充満しています。56枚の中編、ページ制限を気にせず、好きなように描いている。 医学的に、リアリティーの線からぎりぎりセーフで、もしかしたら少し超えて、しかもグロで,でもどこか気品がある(?)、そういう つもりで描いている。一次審査も通過しなかったのかどうか記憶がないのです。本当に昔のことが箒で掃いたように消えている。 老化とは残酷と言わざるを得ない。いやいやこれは単なる僕自身の知能指数の問題にすぎないか。でも熱い気持ちで描いていたことだけは 忘れていない。
鉛筆書きのセリフのところだけは活字を入れ直しました。ああそうか、活字が貼っていないということは一次も通過していないということだ。 でも、落選した時の記憶がさっぱりないのです。他はいじっていません。そうだ、一か所だけ、友人の医者が「医学的におかしい箇所が あるが、それでストーリーを変えなければならないほどでもないし、漫画の流れとして、まあいいか」」と言われたのを思い出し、 そこだけ一コマ修正しました。話の中で、おちこぼれの酒飲み医者が登場するのは、何だかドクトル・ノンべを予見して口端が緩みます。


一平の国家に及ぼす影響


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 不定期に応募を続けていた、ごく初期の作品です。
まだ応募作品が一度も審査にかすったこともない時代の作品です。 それなのに、ストーリー漫画に何の実績もないチンピラのくせに、その頃の劇画の風潮にあきたらず(何というあつかましさ!)新しいストーリー漫画を 提示するつもりで描きました。つまり、ストーリーさえおもしろければ、リアルな絵や、大胆な構図はいらない、4コマ漫画(ここを強調)を延長したかたちを淡々と 続けても、十分読者はひきつけれるはずだ、と。まあ、こうやって、そのころの心情を吐露するのもはずかしい……。
 結果はなんと一次審査には通過しました。落ちたことに落胆と、全国から応募した作品から一次審査には引っかかったといううれしさと、ないまぜの気持ちが半々でした。 審査員の一人に手塚治虫先生がおられました。手塚治虫先生の総評の言葉の中に次の記載がありました。「ちょっと気になる作品があるにはあったのだが……」。アッ、これは おれの作品の事を言われているのだな、と即座に思いました。なんでも自分中心という性格はあの頃から一向に変わりません。いやあ、ほんとにはずかしい。 戦略も、戦術もあったものではない。
 倉庫の整理でこの作品の出来のわるい印刷コピーがみつかりました。原稿はないのです。「返却希望」と注文しなかったのか、そういう制度がなかったのかはっきりしません。 もしかしたら入選するはずだから、原稿返却は別の形になるはずだから、と思ってたのかもしれません。いやあ、そのくらいのことは考えられます、あの頃の世間知らずの 自分を思えば。読み返してみて、(例によって、歳のせいでほとんど思い出がなく、新しい作品を読む気持ちで読みました)面白かった!これは画力の成長した現在の私(?)が 描き直したら、きっと格段面白くなるぞ! 一瞬そう思いましたが、やめました。この話はこの画風でいいのだ!と。印刷状態が悪く読みずらいとは思いますが、 あえて修正はしていません。セリフだけは活字化しました。


ちか子という名の子犬


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 私は恥ずかしながら一応医学博士です。私の博士号の論文には動物実験が付帯していました。
この研究は私にとってストレスでした、楽しいことは一つもありませんでした。実験動物は犬でした。 少なからぬ犬の命が、私の医学研究のために犠牲になりました。忸怩たる思いです。 実験動物用の犬は、保険所で処分される運命の犬でした。遅かれ早かれ殺される運命の犬とはいえ、彼らは私の実験のために私の致死量の 麻酔薬によって死んでいきました。この犬たちは私の研究で医学の進歩に役立ったでしょうか、答えは「ノー」です。私の単なる博士号修得のためだけに 死んでいったのです。このストレスの中で、つまりこの動物実験の中でこの作品は思いつきました。私はこの時以来、一生ペットとしての犬は飼うまいと 決意しました。私はペットを飼う資格がないのだと。
それはそれとして、私はこの作品が大好きです。もちろんご多分にもれず、ボツ作品です。でも、セリフが活字化してあるので、一次審査には 通ったのかな、記憶がありません。ストーリー展開もいいと思うし、絵柄も結構筆をふんだんに使って丁寧で、いいんじゃないかな。今の僕に この作品を描き直せと言われても、これ以上の水準の作品を描く自信はありません。
私はこの作品を愛し、そしてこの作品を誇りに思っています。


 猿の動物園 


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 「サルの惑星」という洋画の( たしか )シリーズがありました。私はこの映画も見てないし、原作(もしもあればの話ですが)も読んでいません。 ところがこの「 猿の動物園 」は、この映画が評判になったころ同時に、何の関係もなく、できたのです。できてしまってからこのことを知って、、何だか投稿するのが 気乗りがしなくなりました。同じテーマなので、二番煎じ、もしかしたらイミテーションと言われる危惧がありました。でも実際いま言ったように、 私はこの映画を一作も見ていないので未だに内容を知りません。そして結果、投稿したのか、しなかったのか、また例によって記憶がありません。でもこれは原稿のコピーから 起こしたものです。原稿がないのです。だから投稿したはずです。それで、ボツになったら原稿が返ってこないので、コピーしておいたのだと思います。つまり、 この作品もボツ作品です。
 あれからも、私は当該の映画をいまだに見ていません。多分映画の方がずっといいはずだし、そのことを認めたくなかったので見ていないのです。でも、今度 コピーを読み直して、「結構、おもしろかった」。それでULしてみました、見てください。


 蔦(つた)夢の助 


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 これもボツ作品です。描きあげたときは結構自信があったのですが、一次審査も通過しませんでした。
この作品が箸にも棒にもひっかからないものだと評価されたときは、正直、落ち込みました。身内の者は落選の結果が出ると せきを切ったように辛辣な批評を私に向かって開始します。でも、私はめげません。数日で立ち直り又次の作品を構想し始めます。 この作品の中の、山頭火の話は私が経験した実話です。今日久しぶりに読み直して(例によって記憶の中の話とはずいぶん 違ったもので)、あれ、蔦夢の助というキャラは、そんなに捨てたものじゃないなと思ったりしました。
いい時代になりました。ネットという発表手段ができ、ボツ作品でも、そこに載せればもしかしたら、一人でも二人でも 読んでもらえるかもしれない、いやあ、本当にいい時代ですねえ。


 花嫁の刺青 


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 ドクトル・ノンべの「番外編」です。
載せてもらえる約束で清書した原稿でしたが、その後「載せない」という担当の編集者の電話がありました。たしか、「買い取り」というかたちになり、 原稿料は払うが、掲載はしないということでした。今では考えもつかない処置です。のうてんきな私は不掲載になったのにはよっぽどの何か特別な理由が あるのだろうと軽く思っていました。。「ドクトル・ノンベ」のシリーズが不人気であること、単行本の売れ行きが良くない、編集長の交代、 私の身の回りに忍び寄る氷のような環境に気がつきませんでした。それからはいくらネームを送ってもいい返事はなし。そしてこれが大事なことですが、 次の新しいネームを送るのが遅れてても、向こうからは何の催促もなしでした。
これから私の冬の時代が始まり、今も続いています(笑い)。


 ふれあい 


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 四国にいたとき子供たち3人は小学生でした。学校から時々PTA会誌のために父母に原稿依頼があります。 たしか「ふれあい」というテーマで親が子供のために何か書けということでした。私はテーマを曲解して2枚の漫画を描きました。 他の方は色々真面目なエッセイ等を書かれたのかも。評判は不詳。でもこの漫画はあの頃の忙しくて余裕のないある意味不安な 状況を( 真面目な気持ちではないにしろ )表現しています。


 エイズってな〜に? 


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 四国で勤務していた時の「タバコってな〜に?」の姉妹編です。
愛媛県医師会小児科会で依頼されてつくった「タバコってな〜に?」が評判がよかったので、同産婦人科学会でも性教育についてというお声がかかり、 エイズについて描くことになりました。子供に性教育?というハードルがありました。しかしその頃私は個人的に「分子生物学」に異常な興味を 持っており、その関係の外国の分厚な翻訳ものを懸命に読み解いていました。そこで得たなまかじりの知識を横の糸にしてこの作品を描きあげました。 この作品はすぐ冊子になって学校に配布されたと思います。そしてその後思いもよらず、その年の愛媛県医師会の医学賞を受賞したという通知がきました。 授賞式に出ろということでしたが、遊び心で描いた作品が真面目な医学の場所で賞されることがちょっと恥ずかしく辞退したいと思ったのですが、 賞金が10万円ということを知らされて、私はいそいそと出ていきました。いやあ、お恥ずかしい。
 その後この作品は改訂作業の依頼もなく、第1版で終わり、いま学校教育に利用されているのかどうかも不明です。送られてきた数十冊の冊子は永らく 倉庫に眠ったまま。それに元・原稿も行方がわかりません。改めて見ると、絵も下手です。「タバコ…」とちがって以後の改定の淘汰を受けていません。 家族の批評ももっと酷いもので、だからこれまで私のHPにULする気持ちがおきませんでした。しかし読み直してみると結構いい線を言ってると思っていました。 その頃に得た分子生物学の知識を頑張って使って、ごまかさないで描いていると。ハウツウーものとしては悪くないと。
先日友人が「むかし、『エイズ』の漫画があったよな、あれ結構よかったぜ」という言葉をもらい、気持ちを変えて何十年ぶりにULすることにしました。 元・原稿がないので、冊子を一冊ばらばらにしてスキャナー・コピー。セリフが少し薄いので、そこだけフォントを変えてやり直しました。


 死にそこなったダンプカー 


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 倉庫の中から見つけたこの作品は何だか愛着があり、いつかULしようと決めていました。 投稿時代のごく初期、まだ一度も入選したこともなく、入選する自信もない時期に描いた作品です。多分学生時代ではなく、医者になってからの 作品だと思います。口幅ったいいいかたですが、力一杯でなく思いつきで描いたと言ったら傲慢かな。もちろんボツ原稿ですが、落ちた時のくやしさの思い出が 皆無です。例によって元原稿がありません。残存しているコピーをスキャンし何とか見える画像に加工し、セリフだけはフォントを入れました。 あおい時代ではありますが、一人前にピカレスク小説を気取っています。(その当時は意識していなかったのですが)ついでに 芥川龍之介の「雲の糸」で色づけしてるのかなあ。よくよく見ると、今も脈打つ「中原とほる」漫画のエッセンスがそろって入っています。人間ってそんなに 成長しないのかも。
手描きのアミもほとんどなく、スクリーントーンは皆無、その技法さえを多分知らなかったのでしょう。ULする時点でせめてスクリーントーンだけでも 入れたら見やすくなるとは思ったのですが、あえて手を加えませんでした。